日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2017年10月

テキスト@ ローマ3:28-31

1.律法を完全に守ることは不可能

律法による道は、律法を一つ残らず完全に守ることによって救われると、教えている(ガラテヤ3:12※リビング・バイブル)
   「十戒」だけならまだしも、旧約聖書には守るべき規定がたくさん記載されています。それらを一つ残らず完全に守るということは普通に考えても困難であることは明らかです。また「十戒」であっても、「だれでも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」(マタイ5:27)という規準にまで引き上げられると、誰もそれを完全に守ることはできないでしょう。さらには「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となった」(ヤコブ2:10)とみなされるならば絶望的です。律法は私たちを「罪人」であるとの自覚に導くのです。

2.動物の「贖い」は犠牲として完全ではない

雄牛とやぎの血は、罪を除くことはできません(ヘブル10:4)
 人間は「律法」を完全に守ることはできない。実はこれは旧約時代に生きるユダヤ人にとっても了承済みのことでした。だからこそ罪の赦しを享受し、その血によって、きよめられることによって創造主なる神との関係を回復する「贖い」の儀式も定められていたのです。しかし、そこで捧げられる犠牲は「動物」にしかすぎません。人間の罪を完全に贖うことはできませんでした。

3.律法の本質は「信仰」にある

  信仰によって・・・律法を確立することになる(ローマ3:31)
 なぜ、信仰は律法を確立することになるのでしょう。それは律法の本質が信仰にあるからです。パリサイ人たちは律法を厳格に守ることにのみ心を奪われてしまい「神のことばを空文(無)にして」いると指摘されました。サドカイ人たちは神の臨在のあふれる神殿で仕えていながら、「聖書も神の力も知らない」(マルコ12:24)と言われました。両者ともに旧約聖書の教えの本質的な部分に目が開かれていなかったからです。

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テキスト@ローマ3:21~30

1.罪を覆い隠す

神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼に着せてくださった(創世記3:21)
 私たちはキリスト教特有の「救い」を表す言葉として「贖い」ということばを使用します。その原型とも言える出来事が創世記の3章に記されています。「贖い」には「覆う、隠す」という意味合いが含まれていますが、創造主なる神は文字通り、人間の「裸の恥」を覆うために皮の衣を着せてくださいました。聖書において「裸」は人間のありのままの内面を象徴します。堕落後は罪に汚れた状態ですから「恥」とされます。

2.いのちを救う(血の代価)

いのちとして贖いをするのは血である(レビ17:11)
 なぜ皮の衣でなければならなかったのでしょう?それは「いのち」を贖うためには「血」を流す必要があったからです。神は人間に善悪の知識の木から取って食べたら必ず死ぬ(創世記2:17)と言われましたが、「いつ」死ぬとは言われませんでした。食べた途端に死んでいた可能性もあるわけです。少なくとも神の目に罪が明らかになった時にはその場で殺されてもおかしくありませんでした。しかし、「血」による「贖い」の故にその場で「死」の裁きを受けることはありませんでした。結果、アダムに内包される全人類に「救い」の機会が与えれたと考えることもできます。

3.かおりを放つ

キリストも・・・ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。(エペソ5:2)
 旧約聖書の時代、供え物が神の前に捧げられる時、それは火で焼かれました。その時、煙とともに立ち上る「かおり」にも重要な意味が持たされています。それは神の怒りを鎮める効果、つまり、神を喜ばせる効果があるとされるのです。そのような意味では私たちもまた神を喜ばせる「愛のかおり」を放つための供え物です。日々、自らを全焼のいけにえとして捧げ、聖霊の炎によって焼き尽くされましょう。

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