日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2017年07月

使徒28章1ー10節

難破した船から命からがら脱出し、マルタ島に泳ぎ着いて一息ついたかと思ったら、今度は毒蛇に噛まれるパウロ。まさに泣きっ面に蜂のような状況です。私たちはここから、何を学ぶことができるのでしょう。

1.苦難を許される神

 三九のむちを受けたことが五度・・・石で打たれたことが一度、難船したことが三度・・・川の難、盗賊の難・・・都市の難、荒野の難・・・(Ⅱコリント11:24~) パウロほど神に愛され、神に用いられた人は多くありません。そして、パウロほど多くの苦難を経験した人も多くはないでしょう。神に愛され、用いられるからといって、その人が苦難を経験しないわけではありません。神は愛する者をあえて厳しく訓練されることもあるのです。

2.すべてを益とする神

神を愛する人々、すなわち神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる(ローマ8:28)
   難破に至るまでの一連の出来事をとおして囚人を移送する百人隊長の信頼を得、また毒蛇に噛まれることをとおして、流れ着いた島民の尊敬を得、そのことによって囚人の身でありながら、パウロは事を有利に運ぶことができました。全ては神のご計画の中で益と変えられたのです。

3.サタンの攻撃から守られる神

すべて主を愛する者は主が守られる(詩篇145:20)
 人生には様々な苦難や困難が襲って来ます。それら全てが神の御手の中にあります。しかし、その全てが神によって引き起こされるわけではありません。実はその多くが私たちを滅ぼそうと、また福音の前進を妨げようとサタンや悪霊がもたらすものなのです。しかし、神はそれらを、神を愛する人々の成長と福音の前進のために用いられるのです。

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使徒27章27ー44節

ローマ行きの船が難船状態になり、ほとんどの人が希望を失う中、パウロだけは希望を持ち続け、周囲の人々を励まし続けました。なぜ、彼は常に希望を持ち続けることができたのでしょうか?その希望はどこから来たのでしょうか?

1.神のことばから来る希望

聖書の与える忍耐と励ましによって、希望をもたせる(ロマ15:4)。
 みことばにより信仰が生み出され(ローマ10:17)、その生み出された信仰が望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるのです(ヘブル11:1)。パウロによれば目に見える望みは、望みではありません(ローマ8:24)。人間的な希望が何もなくなった時こそが、真にみことばに出会う時、神様の栄光が現される時であることを期待するのが真のクリスチャンです。 

2.祈りから来る希望

いつでも祈るべきであり失望してはならない(ルカ18:1)
 失望しないためには「祈り」が必要であることをイエス様は教えられました。神の霊から来るところの人知を超えた「希望」は「祈り」から生み出されます。祈りによって、神は私たちを「聖霊の力によって望みにあふれさせてくださる(ローマ15:3)」のです。それは「望みを抱いて喜び、艱難に耐え、絶えず祈りに励む」(ローマ12:12) という霊的な良い循環を形成します。

3.練られた品性から来る希望

練られた品性〔練達〕が希望を生み出す(ロマ5:4)
 練られた「品性」から生み出される「希望」とはどのようなものでしょう?他訳の聖書では「品性」とのことばが「練達」と訳されていることを含めて考えるなら、ここでいう希望は、様々な経験をとおして信仰が成長し、さらには成熟し整えられていく中で、生み出される希望であると考えることができます。その信仰の練達による品性から生み出される「希望」は、死に至るまで、神のみこころのうちを忠実に歩む上で大きな力になることでしょう。

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