日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2017年01月

使徒17:1-15

1.聖書のみ、イエスのみ

「聖書に基いて・・・イエスこそ、キリストなのです」(使徒17:3)
 私たちの宣教の働きの土台は「聖書」であり、その中心は「イエスこそキリストである」との使信です。聖書以外の何かに聖書と同等の権威を置いていたり、また、聖書の教えを単なる人間の思想から生まれた宗教として教えているならば正統的な信仰を継承しているとは到底言えません。また、聖書を神の唯一の権威ある言葉として認めていたとしても、聖書が最も伝えようとしている、イエスがキリストであるとのメッセージが語られないならば、それもまた宣教の働きにおいて不健全な状態に陥っていると言わざるを得ないでしょう。

2.真理を追求する

「はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた」(使徒17:11)
テサロニケのユダヤ人たちと、ベレヤのユダヤ人たちの大きな違いは彼等の真理を求める姿勢にありました。テサロニケのユダヤ人はパウロの語る言葉が真理であるかどうかよりも、自分たちの共同体からキリスト者が出ることが面白くなかったのです。それで妬みにかられてパウロたちを迫害します。しかし、ベレヤのユダヤ人たちは共同体の存続とか自分たちのプライドとかよりも「真理」がどこにあるのか、ということを真剣に探り求める人達でした。だからこそ、彼らはパウロの語るナザレのイエスにキリスト(救い)を見出したのです。

3.羊と山羊を分ける

「彼らのうちの幾人かはよくわかって・・・従った」(使徒17:4)
  イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は・・・」(ヨハネ6:54)と言われた時に、表面的なことでしか物事を判断できない弟子たちはその言葉を誤解し、イエス様から離れていきました。神様は時に羊と山羊を分けるため、良い麦と悪い麦を分けるため、あえて誤解が生じる事柄の中に教会を投げ込むことがあります。その中で、私たちが信仰の本質を掴んでいるかどうかが試されるのです。

スポンサーリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加

text 使徒16:11-40

1.聖霊の時、聖霊の方法 

使徒16章記されているルデヤという女性の救いは宣教の働きが「聖霊」によるものであることを明示します。私たちの働きは「福音」を信じさせることではなく「福音」を伝えることです。あとは聖霊様に委ねるのです。聖霊様は適切な時に適切な方法で選びの民に信じる心を与えてくださいます。救いへ導かれる方法もそれぞれ違います。ルデヤや看守もそうでした。自分がこのような救われ方をしたから、他の人も同様な体験や方法で救いに預かるべきだと考え、それを押し付けることは聖霊の働きを妨げることになります。

2.悪霊の巧みな宣教妨害

 占いの霊に憑かれた女性の言っていることは間違いではありませんでした。ですから、彼女の言動は一見すると、パウロたちの宣教の働きに協力しているように見えます。しかし、実際、それは宣教の働きに対する妨害行為以外の何物でもありませんでした。このことは教会内においても起こりえることです。極端な例をあげれば、真面目なクリスチャンが福音宣教に熱心になるあまり、毎日のように友人の家を訪ねて、一日中、福音を語っていたとしたらどうでしょう。信じようかなと思っていた人も、辟易してかえって心を閉ざすことにならないでしょうか。それは聖霊の導きではありません。

3.全てが神の御手にある

 宣教の働きを妨害する占いの霊を女性から追い出したことで、パウロらは彼女を商売の道具としていた輩に恨まれ、投獄の憂き目にあいます。状況としては宣教の働きに対する妨害がさらに深まっているようにみえますが、実はこれこそ神が看守とその家族を救うために用意されていた周到な計画だったのです。私たちはどのような自体になろうとも、神の完全な救いの計画を信じて、どん底に思える時にこそ神に賛美と祈りを捧げていこうではありませんか。

スポンサーリンク
このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ