日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2016年06月

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

(歴代誌第二16章9節)

1.神の目を意識する

 私たちは日々の生活の中で神の目を意識する必要があります。まず、神の目をとおして物事を見るということです。私たち人間はどうしても近視眼的な思考に陥りがちです。しかし、神は全てのことを見通した上で、これが道だこれに歩めと私たちを導かれるのです。神の目は神を恐れる者の上に注がれることも忘れてはなりません。神の守りや導きは自らを神の前に低くする者とともにあるのです。また、神は私たちの全てを見ておられるという意識も大切です。神は私たちの心を見通す方であるという意識は罪の抑止力となるでしょう。

2.神と心一つになる

 神と心一つになるということは「この世と調子を合わせない」(ロマ12:2)ということでもあります。私たちはもはや、この世的な価値観で物事を判断しません。クリスチャンが物事を判断する規準は「みことば」です。そのためにも私たちは神の言葉を心の内に豊かに蓄える必要があります。私たちが信仰の土台をいつまでも変わらない神の言葉に置く時に、自分の気分や感情によって左右されることのない安定した信仰生活を送ることができるようになるのです。

3.神の力の必要性を認める

 自らに「救い」が必要であることを認めない人は「救い」を求めようとしないでしょう。同様にすでに救われたクリスチャンであっても「神の力」の必要性を覚えていないが故に、それを求めず敗北のクリスチャン生活を送っていることはないでしょうか?私たちには「神の力」が必要です。そのことを真に認めている人は「祈り」を大切にするはずです。祈らないところには神の力も働きません。しかし、私たちが祈るならば私たちの弱いところに神の力が働くのです。

説教者:高森真理子
2016.6.26 礼拝説教要約 

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説教者:高森真理子

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パウロがもともと「選びの器」(使徒9:15)であるならば、どうして神はもっと早くに彼を救い、宣教の働きに用いなかったのか?ふとそんな疑問を持ったので、それに答える形で考察してみました。

1.迫害者の中にも選びの器がいることを示すため

イエス様は「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われました。私たちはそれを実践しているでしょうか?殉教者ステパノはそれを実践しました。彼は迫害する者のためにとりなしたのです。その中の一人にパウロが含まれていたことを忘れてはなりません。迫害者パウロが、キリスト教を代表する宣教者使徒パウロとなったのは、ステパノの祈りがあったからかもしれません。

2.パウロ自身を砕くため

パウロは光の中にイエスと出会い、それまでの人生の全てを否定されたような気分であったろうと思われます。それは想像しがたい衝撃だったでしょう。「私は自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした」(ガラテヤ1:14)との発言には、当時の彼がユダヤ教徒のエリートとしての自負を抱いていたことを伺わせます。しかしそこから来る熱情に従って歩んだ結果、彼は神のみこころとは全く逆の道を歩んでいたことを知ったのです。それゆえに彼はそれまでの学業や実績を「キリストのゆえに、損と思うように」(ピリピ3:7)なりました。その時に、彼はキリストの福音のために働くものとして整えられたのです。

3.パウロの伝道の原動力とするため

「私は神の教会を迫害した」(ガラテヤ1:13)とのパウロの言葉からは、神の救いに預かり、かつ、宣教者として大いに用いられている中でもなお、彼が過去に教会を迫害したことに少なからず負い目を感じていたことを伺わせます。しかし、そのことがパウロの福音宣教の大きな原動力の一つともなっていました。私たちの人生には過去において様々な「負い目や引け目」を感じる部分があるかもしれません。しかし、その全てが福音宣教における大きな原動力と可能性があるのです。

(説教者 高森恒喜)
2016.6.19礼拝説教の要約 

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