日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2016年05月

説教者:高木正和兄

第5週の日曜日は信徒さんが説教奉仕をしてくださいます。

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私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(2コリント4:18)

1.天に思いを、神に望みを

     魔術師シモンもバプテスマを受け、表面上はクリスチャンになりました。本人も自分がクリスチャンであることを信じて疑わなかったことでしょう。しかし、その内面は救われる以前とあまり変わっていませんでした。彼にとっての優先事項は「金」と「名誉」でした。もし、私たちが地上での事柄に望みを置き、人の評価を気にしながら生きているとすれば、それは魔術師シモンと本質的には同じです。天に望みをおき、神の評価しか気にしない人こそが、天の御国へと確かな歩を進めることができるのです。

2.苦い胆汁と不義のきずな

 ペテロは魔術師シモンに「あなたはまだ苦い胆汁と不義のきずなの中にいる」と指摘しました。新共同訳では「お前は腹黒い者であり、悪の縄目に縛られている」と訳されています。私たちが「地上のものに望みを置き、人の目を気にして(恐れて)生きる時」、「損得勘定で物事を判断し、人と自分を比較し、その中で自分をまた他人を評価して生きていく時」、私たちの心は「嫉妬心、敵対心、党派心・・・」等の苦々しい思いで満ちてくるのです。結果「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることができない」(2テモテ3:7)「悪魔に捕らえられて思うままにされている」(2テモテ2:26)状態に陥ります。

3.ただキリストを伝える

 福音を伝える上でも、神様信じたら、お金持ちになれる!!とか、偉くなれる!!とか、美しくなれる!!などと、人間の欲望を刺激するようにして福音を伝えることは聖書的ではありません。人を集める上ではそのようなアプローチ法が有効かもしれません。しかし、結局、そのような宣教の方法で教会に来る人はさらなる欲望にがんじがらめになるだけです。そのようなアプローチを好む多くの伝道者が堕落している事実を忘れないでください。伝えるべきは「天の御国が近づいた。悔い改め、福音を信ぜよ」との使信のみです。

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 散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。(使徒8:4)

1.激化する迫害

「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。」(2テモテ3:12)

クリスチャン生活は迫害を受けることが前提です。ですから、聖書は私達が迫害を受けた時にどうすべきかということも教えています。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)。もし、「自分の指導者を愛し、兄弟姉妹のために祈る」ということさえ、できていないとするならば、まずそこから始めましょう。「目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません」(1ヨハネ4:20)

2.拡大する宣教

「ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1:8)


イエス様の言葉はステパノの殉教を機に実現へと向かって行きました。ユダヤ人の迫害によって福音はイスラエルの全土へと広がって行くのです。ユダヤ人の迫害が収束を迎えると、ローマ帝国による迫害が激化しますが、それによって今度は世界の全土へと福音は増え広がって行くことになります。あらゆる困難は地境が広げられる機会かもしれません。恐れないで前進しましょう。

3.救いの喜び

あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。これは信仰の結果である、たましの救いを得ているからです。(1ペテロ1:9) 

ステパノの「死」によって教会は大きな悲しみに包まれましたが、しかし、彼らはそれによって勇気を失ったり、失望落胆することはありませんでした。なぜでしょう。それは彼らがそれにまさる「救いの喜び」をうちに抱いていたからでした。もし、その喜びが失われているのならば、ダビデのように祈りましょう。

「救いの喜びを、私に返し、喜んで仕える霊が、私をささえますように」(詩篇51:12)

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