日南チャペル(イエス・キリスト宮崎福音教会)

宮崎県日南市星倉2丁目にあるキリスト教の集会所です。「聖日礼拝」毎週日曜日午前10:45~12:00。「家の集会」随時。お問い合わせ:0987-25-5226

2016年03月

使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった(使徒4章33節)

1.復活こそ全能の神の証

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ・・・(エペソ1:20)

「神にとって不可能はことは何一つない」(ルカ1:37)との告白は、聖書の最初から最後までを貫くキリスト教信仰の根本です。人間にはできないことを、いとも簡単になしうる方だからこそ「神」なのです。人間にできないことは、できないというのであれば、それは人間と同等もしくはそれ以下の存在です。そのような存在を「神」と呼ぶことはできません。神に不可能がないならば死人を「復活」させることも簡単なこと。神が人間を造られたのです。復活を信じるとは神の全能を信じることです。

2.復活こそキリストの証

死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主キリストです。(ローマ1:4)

 創造主なる神はイエスを死者の中から復活させることによって、イエスこそが神の御子、救い主であることを示されました。素晴らしい宗教家や道徳家はあまたいるでしょう。しかし、死者の中から復活したお方。単なる蘇生ではなく、栄光の体をもってよみがえられたお方は歴史上ナザレのイエスしかいません。

3.復活こそ新天新地の証

血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(1コリント15:50)

イエスは私たちの初穂として「復活」されたと聖書は教えます。初穂というからにはそれに続く穂が想定されているわけです。それはすなわち私たちもイエスと同じように「復活」を体験すること、栄光のからだに変えられることを示しているのです。それこそが、新天新地への希望へとつながる証なのです。

(説教者 高森恒喜)
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画面をクリックしていただければ録画放送を見ることができます

礼拝開始まで15分ほどありますので、お手数ですが、早送りしてくださいm( _ _ )m

録画放送を編集して説教部分のみをアップしました。

説教の要約はこちら→礼拝説教要約【復活を信じる3つの理由】


今回、日南チャペル初の礼拝ライブ配信。

やってみると意外に簡単にできるので吃驚です(@_@。

本当に便利な時代になりましたね。

礼拝の始まる15分前から礼拝の最後までをライブ配信しましたが、次回からは説教の部分とその前後5分程度をライブ配信することになると思います。

すでにクリスチャンの方は所属する教会で礼拝を守られると思いますので、ライブ配信はご覧になれないでしょう。

録画放送も見れますが、別に見る必要もないかと思います笑

しかし、なんらかの事情で教会に行けないクリスチャンの方、またクリスチャンではないけど聖書の話は聞いてみたいという方などなど、少しでもお役に立てれば幸いです。

回線状況があまり良くありませんので、時々音声が途切れたり、聞き取りづらいところがあるかと思いますが、ご了承くださいm( _ _ )m

皆さまの上に神様の豊かな祝福がありますように

たかもりこうき

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人の子は必ず多くの苦しみを受け・・・殺され、三日目によみがえられなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかもはっきりとこの事柄を話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
(マルコ8:31-32)

理想の救世主と現実のギャップ

当時のユダヤ人たちが抱いていた救世主(キリスト)像と、実際に来られたイエス様の間には大きなギャップがありました。

当時の多くのユダヤ人たちが期待した理想の救世主は、政治的・軍事的解放者としての救世主でした。

そのためにイエス様を救世主と信じた群衆は、強引にイエス様を王に祭り上げようとしたこともあります(ヨハネ6:15)。

しかし、イエス様はそれを拒まれました。

ご自身は「苦難のしもべ」として地上に来られたことをよく理解されていたからです。

実は理想の救世主としてのふるまいをイエス様に期待したのは群衆だけではありませんでした。

イエス様と、約3年間、寝食をともにしたであろう弟子のペテロも同じだったのです。

間近に迫る自らの死と復活をイエス様が話された時、ペテロがイエス様を諫めたのは、それが彼の理想とする救世主の言動とは相いれなかったからです(マルコ8:31)。

はじめにイエス様を救世主(キリスト)として紹介したはずのバプテスマのヨハネでさえ、自分が理想としていた救世主とイエス様に大きな隔たりがあったので戸惑いました。(マタイ11:3)

そのようなことを考えると、ペテロの言動も致し方のないことだったのかもしれません。


なぜ正しい救世主像を持つことができなかったのでしょう?

 それにしても、なぜ彼らは旧約聖書の預言の中にはっきりと示されている「苦難のしもべ」としての救世主の姿を見失ってしまっていたのでしょう?

その答えはご自分を諌めるペテロに対して言われたイエス様の言葉に集約されるでしょう。

「あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」(マルコ8:33) 

本人たちにその自覚はなかったかもしれませんが、結局のところ多くのユダヤ人たちは、自分たちの願望を実現するために救世主(キリスト)を利用しようとしていたに過ぎなかったのです。

彼らにとって創造主の御心がどこにあるかということには二の次、三の次だったのです。


私たちは正しい救世主像を持っているでしょうか?

イスカリオテ・ユダがイエス様を裏切ったのはなぜでしょう?

それは、イエス様が彼が期待している理想の救世主とは違ったからです。

もし、私たちがユダと同じように自分かってに作り上げた理想をイエス様に押し付けているならば、私たちもまたイエス様に失望するでしょう。

そればかりか、イエス様を裏切るような行為をしてしまうかもしれません。

キリスト(救世主)は私たちの理想を実現するために来られたのではありません。

私たちがキリストの理想を実現するために存在することを教えるために来られたのです。

イエス様こそが私たちの主であり、私たちはイエス様のしもべとして召されているのです。

この現実を私たちは決して忘れてはなりません。

キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。(ローマ14:9)
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